おはようございます!
本日はビジネスホテルつよしさんにて起床。
8/17(土)、今日は札所を巡りつつ、今治市街地のほうまで進んでいきます。
それでは今日も元気に、おへんろ!
朝ごはん
宿の方からおせったいで美味しい朝食をいただきました…!ありがとうございます!
これと野菜が欲しくなるだろうということでサラダもたんまりつけてくれました。うれしい。
8:01 出発
今治市突入
ビジネスホテルつよしさん、本当に色々とお世話になりました。とても良いお宿でまた今治の方に来たら泊まらせていただきます。
ここらへんは60円自販機のエリアみたいですね。
上の段が組体操状態に。
今日も良い天気。
今治市街地に入りました!僕の1番好きなお城がある町です。
大通りから横にそれる。
延命寺手前にお手洗い使える場所がありました。ありがたいですね。
9:00 お寺に到着。
第54番札所 延命寺(えんめいじ)城門を有するお寺
第54番札所 近見山(ちかみざん) 延命寺に到着。
多くの火災から難を逃れた本尊「火伏せ不動尊」が安置される霊場です。
延命寺の歴史
縁起によると、養老四年(720年)に聖武天皇の勅願により、行基が来島海峡を一望する近見山に不動明王像を刻んで堂宇を建立して開基。
嵯峨天皇の勅願により、弘仁年間(810年〜824年)に弘法大師が堂字を再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、信仰と学問の中心道場にしました。
この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続きましたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改められます。
鎌倉時代の文永5年(1268)、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜った華厳宗の学僧・凝然が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる「八宗綱要」を著したことは有名であります。
しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転しました。
山門の外にある「近見(ちかみ)二郎」と名付けられた梵鐘は、今治市の指定文化財。
延命寺には2つの山門があります。こちらは1つ目の山門。
2つ目の山門
境内入口に建てられたこの総欅造りの山門は、明治初期の今治城取り壊しの際に城門の一つを譲り受けたものだそうです。
手水舎
闇に堕ちた小坊主やんけ…
本堂
くるくる回せる錫杖
大師堂
越智孫兵衛供養塔
江戸時代の庄屋・越智孫兵衛は、七公三民の厳しい年貢取立てに憂いを感じ、池普請の際に麦粥を竹筒に詰めただけの農民の弁当を役人に見せたといいます。
そのお陰で年貢を六公四民に免下げし、それ以降も農民の生活向上に寄与し、享保の大飢饉の際には、一人の餓死者も出さなかったそうです。
つぶらじい
当寺が兵火で焼失した後、享保12(1727)年にこの地に移転・再興された時に植えられたと伝えられる椎の巨木。
9:30 一通り見て次のお寺へ。
お城風の建物が見えてくるも何かは不明。
アイスタイム。暑いので体を冷やす。
次の札所までもう少し!
看板が見えてくる。
10:30 次のお寺に到着。
第55番札所 南光坊(なんこうぼう)空襲から人々を守ったお寺
第55番札所 別宮山(べっくさん) 南光坊に到着。
今治市中心部で、別宮大山祗(べっくおおやまづみ)神社と隣り合っている。瀬戸内海・大三島の大山祗神社は、大宝3年(703)、海を渡らずとも参拝できるようにと、今治に別宮を建てて、南光坊を含む8つの坊を移したとのこと。
南光坊の歴史
大宝3年(703年)、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄が文武天皇の勅命をうけ、大三島(しまなみ海道を今治側から進んで3つめの島)に「大山祇神社」を建てました。
翌々年、島に渡って参拝するのが不便だったために、24の僧坊のうち南光坊を含む8坊が四国本土に移動し、大山祇神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺のこと)の役割を果たし納経をつかさどっていたそうです。
弘法大師は四国巡錫の時、この別当寺で法楽をあげて修法し、霊場に定めたと伝えられています。
戦国時代に入り、伊予の全土を襲った長宗我部元親の「天正の兵火」の際、本土に移動した八坊すべてが焼き払われることとなりました。
慶長5年(1600年)、藤堂高虎が今治藩主に任ぜられると八坊のうち南光坊だけが別宮の別当寺として再興されました。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)8月、今治空襲により大師堂と金比羅堂を残して焼失。
現在の本堂は昭和56年(1981年)、薬師堂は平成3年(1991年)に、山門は平成10年(1998年)に再建されたものとなっています。
山門 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
ここの山門は、「持国天」「増長天」「広目天」「多聞天」の四天王像があります。
一般的な表に仁王像がある山門の形ではなく、裏側も加えた四箇所に四天王を配置しています。
どれも迫力がありますね。
手水舎
本堂
大師堂
第二次世界大戦時の空襲では境内の大部分の堂宇が焼失しましたが、大師堂は金毘羅堂とともにその戦禍を免れました。
その際、数多の焼夷弾が境内に落とされる中、そのいずれもが大師堂の屋根を滑り落ち、堂内にいた避難者の全員が無事であったと伝えられています。
薬師堂
金比羅堂
納経所
納経をいただいて次のお寺へ。
南光坊の隣に大きい神社がありました。
次のお寺は歩いて1時間ほどのところ。
高校の脇などを抜け、まっすぐ進んでいく。
フォロワーさんにおすすめされた奥の院龍泉寺。ここはおへんろさんにコーヒーをくれるのだとか。今回は時間の都合上いけませんでした。
到着!ただ狛犬…?
Googleマップの通り来てたので間違ってたららしくもひとつ隣だった。下手したら長い階段を登るとこだった…
11:37 次のお寺に到着。
第56番札所 泰山寺(たいざんじ)治水伝説があるお寺
第56番札所 金輪山(こんりんざん) 泰山寺に到着。
泰山寺の歴史
今治市内を流れる蒼社(そうしゃ)川は、かつてはたびたび氾濫し、多くの命を奪っていた。この地を訪れた弘法大師は、川に堤防を築いて、「土砂加持(どしゃかじ)」の秘法を行った。すると満願の日に延命地蔵菩薩が現れて、大師はその姿を像に刻み、本尊として安置したのが泰山寺のはじまりとされてます。
元々は、金輪山(きんりんざん)の山頂にお寺がありましたが、数度の兵火により麓である現在の場所へ移築されました。
山門はなし。入るとか逆から行ってしまったので写真も逆からになります。
本坊 この隣に納経所
手水舎
本堂
大師堂
不忘松
弘法大師が水難に苦しんでいたこの地に堤防を築き、当時を開基した際に自ら植えられたと伝えられる「不忘松」
この松は枯れてしまいましたが、現在その切り株の横に子株として育っていた1株が植えられており、この切り株に腰掛けると腰痛回復のご利益があるとのことです。
地蔵車 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
これを回すと六道輪廻の絆を断てるといわれている。
うおおおおおおおおおおお(全力で回す)
こっちが正規の入り口
11:.57 一通りみて次の目的地へ。
来た道を引き返していく。
そろそろお昼なのでランチタイムの時間!
絶品!今治名物 焼豚玉子飯
12:39 中華ダイニング 白楽天到着
やはり人が沢山いて混んでいる。
もう写真でおいしそう。
これなら大盛りいけるだろと思い大盛りを注文。
きました、僕がアニメ「おへんろ。」を見て1番食べたかった「白楽天」さんの焼豚玉子飯。
もう名前からしておいしい。
この半熟卵ちゃんを…
さくっと割って…
ぐちゃぐちゃに混ぜて…
なにも考えずただただがつがつ食らう!!
世界一うまい
まんぷくれま…もういいや、今日の歩きおへんろはここまでにいたし等ございます。まんぞく…
13:21 ご飯を食べ終え次の目的地へ。
黄金荘とはまたすごい名前。
13:31 次の目的地に到着。
3大水城 今治城
お腹も膨れたのでおへんろの後は今治観光!5年ぶりに僕の1番好きな三大水城の一つ、今治城にきました!やっぱ最高です。
今治城は、藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に海砂をかき集めて1602年(慶長7)築城を開始し1608年(慶長13)完成。
本丸には、それまでの望楼型天守と異なり、各階がほぼ均等に、次第に小さくする日本初の層塔型の五重天守が存在したといわれます。
しかし城の完成直後に高虎が加増のうえ伊勢・伊賀に国替えされたため、天守は伊賀上野城に移築する目的で解体。
1610年(慶長15)の丹波亀山城天下普請の際に家康に献上され移築されたとのこと。
ただ、今治城には天守台がないことから「天守がなかった」という説もあり決着がついていないといいます。
高虎の後に入った養子の高吉も伊賀名張へ国替えとなり、以降の城主は松平(久松)氏となり明治に至ります。
藤堂高虎の傑作とも言われ、数々の日本初の築城術が見られるここは日本100名城のひとつでもあり、海水を大きな内堀に取り込んだ珍しい水城として日本三大水城のひとつでもあります。
早速中へ。
ブランコの上部分?
直線的な城壁で囲まれた三重の曲輪と、海水を引き入れた三重の幅の広い水掘り、主要な虎口には枡形門、高石垣には多門櫓などを配置し、高虎の築城手法が遺憾なく発揮されています。
ここはまた来たいお城だったのでほんといい天気にこれて嬉しい。
野面積みですね。
中にある井戸
鳥居の先に神社とお城の入場口があります。
稲荷神社もある。
この伏見稲荷を彷彿とさせる鳥居の数
映えるわ〜
稲荷神社のお堂
いざ天守閣へ。
自分は上から攻略していくタイプなので最上階から。
この眺めの良さも今治城の好きなところ。
お堀も良い。
最上階以外の展示は撮影禁止なのでここまで。
二階には自然科学館もあり、お城と科学館2つ楽しめるのも今治城の好きなところです。
ちなみにお手洗い。ここも石垣。(ここは例外で撮影いいよとのことでした)
なぜかインコが大量に飼われている。
天守のチケットで3つの櫓も見ることができるので行ってみました。ここは写真を展示してた。
藤堂高虎像
こっちの櫓は美術品を展示してました。
向かいの櫓へ。
こっちの櫓は建物の紹介などをしてました。
14:56 一通り見て今治城をあとに。
次は宿に向かう。
そして15:00 ホテル今治ポートサイドにチェックイン。
さて、午後は自転車に切り替えて自転車おへんろ!まずは栄福寺から!
大きい道をかけていく。
やっぱり自転車は早いですねえ。
小ぶりの山が見えてくる。
この坂を登ると…
15:45 次のお寺に到着。
第57番札所 栄福寺(えいふくじ)現代に新たな風を吹かせるお寺
第57番札所 府頭山(ふとうざん) 栄福寺に到着。
エッセイ「ボクは坊さん。」で知られる白川密成さんが住職を務める寺院です。
この本は伊藤淳史主演の映画化し、第49回ヒューストン国際映画祭のプラチナアワード(長編映画部門最高賞)を受賞しています。
栄福寺の歴史
古来より瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えませんでした。
そこで、嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が弘仁年間(810年~824年)に内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山山頂で護摩法を修法しました。
そして満願の日、海上に光溢れる阿弥陀如来が現出しましたので、大師が山頂にお堂を築き「阿弥陀如来像」を本尊として祀ったのが栄福寺の始まりといわれています。
栄福寺には神仏混合の歴史もあり、貞観元年(859年)、大和・大安寺の行教上人が大分の宇佐八幡の分社を、京都の男山に建立するため、瀬戸内海を往来中に、暴風雨に遭いこの地に漂着しました。
彼は府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来が八幡大菩薩の本地仏(神道の神が仮の姿で、本来の姿は仏教の仏)でもあることに深く感激し、境内に八幡明神を勧請し神仏習合の石清水八幡宮を創建しました。
これが明治元年の神仏分離令で神社と寺がそれぞれ独立するまで続いたとのこと。
お願い地蔵 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
観る度にお顔が違う、といわれる方が多くお遍路さん地元の方の信仰、親しみを受けています。
手水舎
僕は坊さんのポスターがありますね。
本堂
昭和8年(1933年)に足の不自由な15歳の少年遍路が栄福寺に参拝中に、乗っていた箱車を連れていた犬に引っ張られ、本堂から転倒。
その際、不自由だったはずの足が治癒するという不思議な出来事が起こりました。
少年は、御利益に深く感謝して箱車を寺に奉納。箱車は本堂の縁に置かれ、以後栄福寺は足腰守りのお寺としても、信仰を集めています。
本堂脇には足の悪い少年が乗ってたという箱車が。
箱車と呼ばれるものです。
大師堂
境内で一番古い建物。
明治元年の神仏分離令により、山頂にあった建物をそのまま現在地に移築してきたと伝えられます。十二支の彫刻が見もの。
彫刻、良いですね…
納経所
演仏堂
1階が寺務所で、2階、3階が庫裏(くり)と呼ばれる生活スペース。
この建物を建立した思いは、「機能」よりも、ある「決意表明」で、それをひと言で表すとしたら、「仏教を今の時代に着地させたい」という思いだそうです。
16:00 次のお寺へ。
田園風景から山の方へ。
へんろ小屋発見。
多分歩きだったら利用させていただいてましたね。
大師像もありました。
ここから険しい坂道。自転車でも登れず逆に辛い。
だいぶ登ってきた。
ここらへんが特にきつく、死ぬ気で自転車を押しながら汗を滝のように流してました。
終点が見えてくる。
16:26 お寺の山門に到着。
第58番札所 仙遊寺(せんゆうじ)仙人は雲と遊ぶ、そんなお寺
第58番札所 作礼山(されいざん) 仙遊寺に到着。
寺は標高300mの作礼山の山頂にあって、境内が山の上にあることから、今治市街や瀬戸内海の美しい景観を眺めることが出来るのが特徴です。
仙遊寺の歴史
寺伝によると、仙遊寺は天智天皇(在位661〜672)の勅願により伊予の国守であった越智守興(おちもりおき)が創建したといわれています。
創建と同じ頃、仙遊寺には阿坊仙人という僧が40年にわたって修行を行い、諸堂を整えるなどをしましたが、養老二年(717年)のある日、まるで雲と遊ぶかのようにこつ然と姿を消してしまいました。この不思議な出来事が仙遊寺という寺名の由来になっています。
弘法大師が仙遊寺で修法を行った折には、荒廃していた七堂伽藍を復興し、病に苦しむ人々のために井戸を掘りました。この井戸は現在でも旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えらています。
その後、江戸時代に寺は荒廃してしまいましたが、江戸末期から明治初期にかけて宥蓮上人が再興しました。
宥蓮上人は明治4年(1871年)に仙遊寺で国内では最後の入定(生きたまま土中に埋まり永遠の禅定に入ること)を行った人物。
山門には力強い仁王像。
金剛力士像
山門をくぐるとへんろ道が。
これは大変そう…
仙遊寺のへんろ道、普段ならそうでもないんだけど、ここまで自転車で来て死にそうになってるのでやばい。…ん、誰かいる?
阿坊仙人の像でした。(中々に大きく、人影と行き帰りどちらも間違えた)
真ん中の柵が逆に歩きにくくさせていて中々進めない。
ひたすら登っていく。
中々道が狭いのに脇は崖になってるので落ちたら危ないです。
石段が見えたら本堂はもうすぐ!
16:45 本堂到着。
あまりに疲れたので乳酸菌ソーダを買って一気飲み。
千体地蔵 ★「アニメおへんろ。」めぐみ聖地ポイント
一つ一つ表情が違うそうです。
手水舎
仙遊寺、何故か境内にバスケットゴールがある。
本堂
山火事の際、近隣住民の協力により本尊「千手観世音菩薩」は救われて焼失をまぬがれました。
この本尊は、仙遊寺創建の際に竜女が海から竜登川をつたって作礼山に登り、一刀刻むごとに三度礼拝し、何日もかけて彫ったものだそうです。
今日の空海コーナーが書かれている。
大師堂
竜燈桜碑
この寺の本尊千手観音は竜女が海から竜登川を上って作礼山にきて彫ったとされる。
竜女は一刀三礼で刻み、観音像を彫り上げると竜登川を下って再び海へと帰って行った。
その後、旧暦の7月9日になると、決まったように竜燈が竜登川を登って作礼山にやってきて、仙遊寺の桜の木にかかっていたといわれる。
この桜は明治まで残っていたが、今は「竜燈桜碑」の石碑を残すのみとのこと。
17:00 一通り見て再びへんろ道から帰る。
下りはやっぱり楽ですね。五分ほどで山門に到着。
裏には草鞋がありました。
そして行きは地獄だった上り坂も帰りは下り!
自転車でさっと駆け抜けていきます!
苦労して自転車で上まで登ったのであとは降りるだけ。風をきって降るのは気持ちいいだろうなあ…!
このながーいながーいくだーりーざーかを~~♪
この街へ下って帰ってく感じ、いい。車輪の唄とか夏色とか聞きながら下りたいですね。
帰る途中、アニメ「おへんろ。」で出てきたお店がまだやってたので寄ることに。
武田屋 八幡饅頭
一個から注文できたので2つ注文。
八幡饅頭の原材料は小豆と黒糖、 それに生地の小麦粉と卵のみ。 とてもシンプル。
柔らかく、ふんわりした生地にしっとりとした黒糖餡。 コクのある抑えた甘さが広がります。
ローソンでお茶と饅頭を食べたあと夜飯へ。
はち八 (はちはち)到着。
ここで夜ご飯です。
突き出しはキャベツと和え物。キャベツはソースをお好みで。
せんざんぎ(唐揚げ)
当たり前ですがおいしい…!
今治名物、ネギ入りの焼きとりのカワきました。今治焼きとりは鉄板で焼くのがスタンダード。めちゃくちゃおいしい。
ハイボールで一杯。
コークハイも。帰りは自転車押して帰ることに。ごちそうさまでした。
公園で一休みする。
にゃーん(四国一周歩きは大変だよ…)
コーヒー飲み放題は嬉しい。この日は漫画を描いてすぐ就寝。
今日の歩数
今日の納経
今日の漫画
■使用金額(納経代含まず)
宿5100円
昼食焼豚玉子飯950円
アイス140円
飲料450円
夜食はち八1850円
八幡饅頭130円
今治城500円
★合計9120円
明日は札所を巡りつつ難所のほうへ足を進めます。
それでは、明日も一歩一歩、歩きます。
明日もなんか、頑張れそうだ。
お遍路スポンサー様
香川県ゲストハウス三条
うどんめぐり、遍路・観光のアドバイスお任せください。連泊歓迎!連泊割引あり。(WIFI.駐車場無料)オタクの方も歓迎です。
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