たまにエッセイを書くことにした。
第一回から物騒なタイトルをつけてしまい、何を言っているんだこいつは、となった方もいるかもしれないが、この記事は犯罪行為を赤裸々に告白するようなものではないのでどうか安心してほしい。
そもそもエッセイを書こうと思い至ったのは、今月正月休みからだいぶ堕落してしまい、ほとんどの時間を読書に費やしてしまったことがきっかけで、その中でも辻村深月氏のエッセイ本『図書室で暮らしたい』を読んだからだ。
辻村深月氏の著書は大学時代「凍りのくじら」を読んで以来すっかりファンになってしまい本を集めるようになったが、この本はエッセイ集なので気軽に読め、今回読むのも4周目になる。
私は元々短い話が好きで、さらっと短いページ数の中に起承転結をしっかりと詰め込み、輝かせるということに憧れて自分の作品でもショートストーリーを作ることが多い。
ショートストーリーと言っても星新一氏のようなSF作品より、池波正太郎の食エッセイ『食卓の情景』のような、三浦哲郎の短編集『モザイク』のような、江國香織の少女性を持つノスタルジーさを感じる『すいかの香り』のような、そんな作者の色が出る作品を特に好んで読むことが多い。
灯籠のように、ほっと光る文章は見る人の心を温めてくれて、それは絵ではけして敵わない、そんな風に思わせてくれる言の葉の群れに憧れて私も筆をとった次第だ。(実際にはキーボードを叩いているだけだが)
さて、今年は例年に比べて暖冬といわれており、毎年必ずつけていたエアコンも今年はまだ一回もつけていない。雪はたまに降ることがあるが、それでも積もるまでには至らず少し残念な気持ちになる。
冬といえば子供時代、年末年始は祖父母のいる富山県城端町に毎年行っており、辺り一面に積もった真っ白な雪に目を輝かせていた。
この頃は携帯ゲームも持っておらず、まさにTHE・田舎といった祖父母宅ではやることもないので専ら外に出て遊んでおり、積もった雪を使って従兄弟と雪合戦やかまくら作り、そして恐れ知らずな子供らしく新雪にシロップをかけて食べていた記憶がある。
そんな雪遊びの中でも自分が好きだったのは父に教えてもらった「ダム」という遊びである。
遊び方は単純で、祖父母宅の前の道路脇にある蓋をしていない側溝に流れている水を大量の雪で止め、最大まで溜まったところでその雪を足で踏み潰しバラバラにする。
そうすると溜まった水が雪の塊と共に一気に流れ、川に合流する側溝の坂になっている部分で勢いよく射出され、まるで黒部ダムの放水のようになるのである。
「遊び」といえるほどでもない拙いものではあるが、実際やってみればきっと大人でも気持ちよく感じることだろう。感覚的には丁寧に並べて完成させたドミノを倒すようなものであり、言葉で表現できない爽快感を感じること間違いなしだと思う。
私は当時この遊びを「雪合戦」や「かまくら作り」といった遊びの単語として「ダム」を認識しており、本当のダムというものを知らなかったので、小学校で提出する日記にこの事を書いたものの、先生に理解してもらえなかったのはいい思い出である。
そんな無知で雪のように真っ白だった頃、正確な記憶かもわからないが祖父母の家であった、印象に残っている「匂い」がある。
その時祖父母の母屋は改築中で、泊まりにきていた自分たちは隣にある納屋でストーブを囲んでゴザをひき、毛布をかけて寝ようとしていた。
その頃自分は「テレビマガジン」という雑誌を買ってもらい、当時やっていたウルトラマンティガの記事を熱心に読んでいたのを覚えている。
泊まっていた納屋は、「遠野物語」やよくある昔話で出てくるような建物であり、ほんのり炭と混じった鯉のエサのような、感覚では表現できないそんな懐かしくなる「田舎の匂い」がしていた。
たまに地方へ行くとたまにふっ…とその匂いを感じることがある。
それを感じるとなぜだか突然泣きたくなる気持ちになり、あったかくもなる。
「それは神様が近くに来たときに感じる匂いなんだよ」
そう誰かが言っていたような。それさえも不確かだけど、「ダム」をしていた子供時代にその匂いは確かにあった。
今も私の神様は、子供の頃から時折会いに来てくれているのかもしれない。